特別対談
過去への感謝、未来への決意
金田喜稔×田嶋幸三



1921910日に「大日本蹴球協会」として創立され、2021年に記念すべき100周年を迎える日本サッカー協会(JFA)。約半世紀にわたって日本サッカーの歴史を共に歩んできたJFA田嶋幸三 会長と名蹴会 金田喜稔 会長による特別対談が、JFAハウスで行われた。

同い年の2人が、”次の100に向けて語る、過去への感謝、未来への決意とは。




 

金田 まず、東京オリンピックはメダルが獲れなくて残念だったけど、本当におつかれさまでしたとチームの皆さんに伝えたい。特にこのコロナ禍での開催だったこともあって、本当に様々な苦労があったと思うし、色々な制約もあって本当に大変だったと思うんですよ。
 
 

田嶋 全力を出し尽くした森保監督をはじめとした選手、チームスタッフ全員に本当に感謝しています。また、テレビで応援して頂いたサポーターの皆さまにも本当に感謝しています。中2日で6試合という短期決戦でしたが、世界との差を埋めていく為に、日本サッカー協会が覚悟を持って取り組まなければいけないことが数多くあると実感しました。

 
金田 視聴率からしても、サッカーってやっぱり注目度の高いスポーツなんだなって感じたね。特に今回は無観客試合だったこともあって、苦しい時間帯に耐えれるかどうか、点が獲れるかどうかって、1番はやっぱり観客の声援だと思うのよ。だからスタジアムがガランとしていたのはちょっと残念だったな。


田嶋 そういった環境の中で、監督も選手たちもみんな本当に全力を注いだ上での結果で、ある意味我々に足りなかったものを教えてくれたと思う。協会としてやらなきゃいけないことがまだまだいっぱいある。死ぬ気でやらなきゃ選手たちに失礼だなと改めて思いましたよ。
 
 

金田 もちろん幸三は幸三の立場で頑張ってくれていると思うけど、サッカーに関わる僕らみたいな人間も含めて、選手はもちろん、指導者やサポーター、国民全体のサッカーに対するエネルギーや力量が試されるのがワールドカップやオリンピックのような国際大会。日本代表メンバーも海外で活躍している選手が増えてきてレベルも確実に上がってきているのだけど、世界も同時にレベルが上がっている。その中で次のハードルの高さっていうのを選手は肌身を持って実感していると思うんですよ。田中碧選手の言葉が印象的だったんだけど「11で負ける気がしないし、ピッチ上でどこのエリアでも11は負けてません。でも、2233になるときに相手はパワーアップするけど、僕らは11をし続けている。僕らはサッカーを知らなすぎる。」とゆうようなコメントをしているんだけど、これまでワールドカップやオリンピックに出場した選手の中で、僕はこういったコメントを聞いたことがなかったので、新鮮だったし非常に面白いコメントだなと思ったね。もう、そういうところまで埋めていかなきゃいけないのかって。

 

田嶋 代表チームが新たなことを突きつけられているっていうことだよね。今回の短期決戦では代表チームは初戦から全力でいかなければならず、フィジカル的にもメンタル的にも大きな重圧があった。今回実現はしなかったんだけど、メキシコ戦(8月6日)の前に森保監督、吉田麻也選手から、ピッチ上でこの日と89日の原爆忌に黙祷をしたいと申し入れがあったんだよ。選手たちはオフザピッチでも本当に大きなリーダーシップを発揮してくれたと思う。2022ワールドカップ予選に向けて今回のオリンピックは若手選手にとってもアジア最終予選に向けた良い成長の機会になったと思う。協会としても、選手たちの気持ちに応えられるよう、さらに良いサポートをしていかないといけない。

 
金田 そんなことがあったんだね。次のワールドカップはもちろん、ベスト8を目指して、それをもさらに越えて欲しいというのは当然サッカーファミリーみんなの願いであるんだけど、1996年のアトランタオリンピックが28年ぶりのオリンピック出場で、1998年にオッカン(岡田武史 監督)がフランスワールドカップの道を切り拓いてくれてから毎回出場が途切れてない国ってなかなかないでしょう。A代表の男女、U-20などの各カテゴリー、ビーチサッカーも含めて、今までは世界大会に行っても1次リーグ突破できなかったこともあったのに、ここ数年は全部突破だもん。ブラインドサッカーも、先日高田敏志監督と対談をしたんだけど、メダルに向けて相当な準備をしているなと感じたよ。
 

 
田嶋 パラリンピックには女子の5人制サッカー(ブラインドサッカー)はないんだけど、ブラインドサッカーの菊島宙選手はすごいよ本当に。お父さんがコーチをされていて、実際のプレーを観に行ったことがあるんだけど、「あれ、この子見えてるんじゃないの?」っていうくらい上手い。
 
 
金田 僕もブラインドサッカー日本代表10番の川村怜選手がボールを蹴ってるシーンを見たことがあるんだけど、ちょっとびっくりだよね。もちろんボールが見えていないのに見えてるようにシュートするんだよ。だけど、杖をついて帰るのを見て「あぁ、やっぱり見えないのか」と思ったよ。驚いたと同時に、すごい勇気をもらったよ。

 

田嶋 技術ももちろんなんだけど、彼らはなんて強いメンタルを持っているんだろうと思う。宿泊施設に泊まり込みで練習している選手たちも多い中、何人かの選手は自宅から練習場に通って来ているんだけど、選手を連れてくるお父さんやお母さんが、選手の姿が見えなくなるまで見送ってるんだよ。心配なんだと思う。そういうお父さんやお母さん達の気持ちを考えると、活躍してくれるって本当に嬉しいだろうなって思うよ。


 
金田 幸三が忙しくても、パラリンピックは応援に行ってあげないとな。
 
 

田嶋 行く。絶対行くんだけど、僕が2〜3年前にブラインドサッカーを見たときより、だいぶ進化したと思う。絶対に応援に行かなきゃと思うよ。
 
 

金田 こうやって日本の各カテゴリーのサッカーが進化している中で、今年、日本サッカー協会が100周年を迎えて色々なチャレンジをしていくと思うんだけど、幸三にとってこの100周年をどんな気持ちで迎えるのか聞かせてもらえる?
 
 

田嶋 このタイミングで思うことは、1921年に大日本蹴球協会として設立されて、その後、関東大震災、世界恐慌、第2次世界大戦、阪神・淡路大震災、世界同時不況、東日本大震災、そしてこのコロナ禍が訪れて、本当に様々なことがあった100年だったと思います。良い時も悪い時もあったと思うけど、その都度、その様々な状況で、先輩達が頑張って乗り越えてきたから今があると思っています。100年という時間はとても長いけど、そのうち50年くらいキンタ(金田喜稔の愛称)と一緒にサッカーに関わって生きてきた。本当に凄いことだなと思う。少年サッカーでボールを蹴り始めて、中学・高校・大学でサッカーをやって、ユース代表や日本代表にも選ばれて、引退してもサッカーの解説者をしたね。日本サッカー協会の強化委員会(現、技術委員会)もキンタと一緒だったしね。
 
 

金田 懐かしいね。川淵さんがトップにいらっしゃって、キューボウ(加藤久)とセルジオ越後さんも居てね。

 
田嶋 代表強化がうまくいかなかった時期もあったと思う。でも、僕は否定的なことや悪く言ったりしたことは一切ないし、ネガティブなことを考えたこともない。ただ、敗因はしっかりと検証し、分析をして、次に繋げていかなければいけない。100周年を迎えるにあたって日本サッカー協会の最初の50年について徹底して資料を読み漁ったんだけど、最初の50年の変化と、今自分達が関わってきたこの50年の変化っていうのは、格段に違うところがある。
それは、情報量とか様々な事が要因としてあるけど、多くの選手が海外で活躍して、Jリーグでもプロとして活躍している選手が沢山いる。こんな世界になるなんて30年前に思ったかっていうと思わなかったよ。ワールドカップに出られるなんて想像もしてなかった。ワールドカップには出られないものだと思っていたからね。それが今こんな風になったっていうのも、やっぱりちゃんと継続して、しかもただ続けていただけじゃなくて、常に上の方を目指してきたから、今があるんだと思う。



 

金田 そうだね。我々も諸先輩方々が築いて頂いた歴史の縦軸の上に居るんだよね。
 
 
田嶋 例えば、1993年のドーハの悲劇の時も、試合後にNHKの番組にキンタ出演して、明け方に誰も居ない渋谷のセンター街を歩いて帰って、「ちょっとお茶でも飲もう」って喫茶店に行ったよね。
 
金田 あったあった。あの時、日本が勝つつもりでNHKに行ってね。くす玉まで用意されていたんだけど、終わった後にやるはずだった祝賀会みたいなものもなくなってね。
 
 

田嶋 そうそう。その喫茶店で、ウェイターさんが僕たちに「おつかれさまでした。本当に残念でした。」って声をかけてきてくれてね。それで「これ、僕からです。良かったら食べてください。」って、ケーキをサービスで出してくれたんだよね。
 
 

金田 日本中がサッカーに注目しているんだっていう実感が湧いたのを覚えてるよ。そのケーキを食べながら「幸三、これは俺らも一生懸命やらないとダメだな」みたいな話をしたよね。そういうことからも、エネルギーをもらったよね。
 
 

田嶋 そう思うとドーハの悲劇は、日本サッカーが成長するために必要なことだったのかもしれないね。
 
 

金田 大きい出来事だったよね。メキシコオリンピックで釜本さんたちが銅メダルを獲って、わしも森ちん(故・森孝慈)の元で日の丸組としてプレイして、1993年にJリーグが開幕して、釜本さんの銅メダルから28年かかったけど、1996年アトランタオリンピックの出場を決めてくれて、そこから1998年のフランスワールドカップに繋がる訳だけど、結局は100年前に先人が協会を発足して、歴史の一歩を築いてくれたおかげです。だから、名蹴会の活動を通じても、サッカー界の縦軸を大切にしたいという気持ちを発信しています。


 
田嶋 今の話の続きで言えば、 僕とかキンタと同世代の人たちが、一度サッカーを離れたけど最近シニアサッカーで復活しているっていう話も聞く。全国にいる沢山のシニアの選手達を対象に、キンタがクリニックをしてくれているって本当に嬉しいし、感謝しています。シニアになってもサッカーを続けて、サッカーについて語ってもらうということを拡げていかないと、サッカーが文化になっていかないと思うんだよ。
 
 

金田 僕は、サッカーを「やる・見る・語る」っていう言葉で表現しているんだけど、サッカーをプレーしてJリーグや代表の試合を見て、友達同士や家族でサッカーを語るっていう行為を揃えて普及させていくことが大切だと思ってる。わしは今日もこの後サッカーをやりに行くんだけど、40代、50代、60代の方々が参加してくれていて、女性参加者も多いのよ。経験は関係ないけど、高校や大学を卒業したらサッカー終わりじゃないからね。
 
 

田嶋 全国でサッカーの普及活動をしてもらっていることに感謝しているよ。ずっと続けていって欲しい。

 
金田 世界のサッカー大国として、ブラジル、アルゼンチン、イタリア、スペイン、フランスとか沢山あるけど、その国の人口規模にかかわらず、サッカー人口と強さのピラミッドは、大国ほど三角形ではなく垂直に近い台形のように上に伸びているはず。僕の大人対象のサッカークリニックの参加者は、やっぱりやり残した感を持っている参加者が少なくないんです。だから、学校の部活を卒業してもサッカーから離れない環境作りってうのを、日本サッカー協会には頑張って欲しいな。やっぱりサッカー界の土台や底辺は広くないとね。
 
 

田嶋 スペインは今でこそ強豪国だけど、昔は世界の大国を相手にしてもなかなか勝てなかった時期もあったんだよね。バルサ(FCバルセロナ)というクラブの歴史にしてもそうだけど、それこそみんなが苦難の歴史を150年以上やってきたからこそ今がある。日本はなんとか、その150年を120年ぐらいにできないかと思って取り組んでいるところで、その為には努力も必要だし、本当に性根を入れてみんなが取り組まなければならないと思う。
 
 

金田 突然特定のカテゴリーだけ急に強くなるなんてことはありえないし、だからこそアマチュアがどれだけサッカーを辞めないで続けているかっていう国が、スポーツ大国なんだと思うよ。
 
 

田嶋 だから、キンタをはじめとした名蹴会の皆さんの力っていうのは凄く大切だなと思っていて、キンタとボールを蹴れて凄く喜んでくれるシニアの選手がたくさん居るし、レジェンドの選手にサッカーを教えてもらって全国の子どもたちや指導者は喜んでくれている。
 
 

金田 シニアの選手とサッカーをやっていると、昔レギュラーじゃなかった選手に限って走れて上手いんだよね。(笑)わしも負けられないと思って体に鞭打って走ってるよ。

 
田嶋 そういう意味では、例えばキンタと同じ県高(県立広島工業高校)出身の石﨑信弘も、今でも指導者としてJリーグでサッカーを続けているでしょ。県高は松田 輝幸(まつだ てるゆき)先生という偉大な指導者がいらっしゃって、キンタ、(木村)和司、猿沢(茂)、石﨑という個性と基礎的な技術力の高さはすごかったよ。そのみんなが引退してからもそれぞれサッカーに関わって活躍しているのを見ると、高校の頃にサッカーの基本をちゃんと教わって、本質的なサッカーをみんなが理解しているかどうかが大事なんだと思った。
 
 

金田 それで言うと、僕らの青春時代の頂点って高校サッカーだったでしょ。わしは県高でやってたけど結局全国ベスト4止まりだった。全国大会に行って、当時静岡工業とやって鼻をへし折られたわけ。静岡って凄いんだと思い知らされたし、わしは広島ではスター扱いされていたけど、結局は広島の井の中の蛙だったのよ。それで全国大会で負けてから、広島に帰って、わしや和司のレギュラー全員で喫茶店に行って昼飯食べながら、「浦和南vs静岡工業」の決勝戦を観てたんですよ。「静岡工業が優勝するな」と思って決勝戦を観ていたら、浦和南が2-1で勝ったのよ。その試合で幸三は浦和南のキャプテンで、その2点を獲っているんですよ。
それで、試合の後のインタビューで幸三が、「みんなで獲った得点ですから」みたいな立派なことを言うのよ。わしらからしたら高校3年生ってまだまだ子どもじゃん?それを聞いて「同級生でこんなすごい奴おるんや」と感心したよ。


 
写真中央:全国高校サッカー選手権  広島県立工業高校 金田喜稔
写真中央:全国高校サッカー選手権 浦和南高校 田嶋幸三


田嶋 浦和南には僕や菅又哲男とか、将来日本代表に入ってくる選手がいて、静岡工業は吉田弘がいたよね。僕はその後クラマーさんと出会うんだけど、指導者との出会いって本当に大切なんだと思う。特に子どもたちを教える指導者ってすごく大切だなと思っていて、サッカーを楽しいって感じてくれる子どもが増えたら、間違いなく日本のサッカーはこれからも発展していくと思う。
 
 

金田 確かに、Jリーグでチームを勝たせる監督だけじゃなくて、子ども達に本質的なサッカーの楽しさを教えられる指導者っていうのは、もっともっと作っていかなきゃいけないんだなと思うね。
 
 

田嶋 僕は、ドイツ留学時にクラマーさんの指導を受けたんだけど、もっと色々なフェイントとかを教えて欲しいと思った。でも、メキシコ五輪でメダルを獲れたのはクラマーさんが「止める・蹴る」という基礎を徹底して指導していたからなんだよ。クライフターンとかドイツのパス回しとか色々研究していたけど、結局は「止める・蹴る」が個々でちゃんとできなかったら、どんな良い戦術があったて全然意味がないっていうことをクラマーさんには改めて気づかせてもらった。「名選手、名監督にあらず」っていう言葉は、確かに言えてるのかもしれないけど、名選手だった人が良い監督になることの確率は圧倒的に高いと思うよ。
 

金田 確かにそれはあるかもね。ベッケンバウアーやクライフだってそう。クライフはバルサをあそこまで作ってるしね。日本の指導者養成っていう部分で言うと、もちろん宇野 勝さんや松本 光弘さんといった先輩方々がおられると思うけど、JFAの指導者養成の基礎的な部分は、ほぼ幸三が作ってきているでしょ。幸三がケルンに留学したモチベーションとか、そこで影響を受けたこと、今でも活かされていることはある?
 


田嶋 まず、なんで僕が古河工業を選んだかというと、先に古河の先輩の奥寺(康彦)さんが1FCケルンに行かれていて、「古河に来てくれればまず23ヶ月留学させてあげる」って古河の方に言われたんだよね。それでちょうどドイツが新しいシーズンを迎える時期の7月にケルンに行ったんだよ。キンタも行ったことあるよね?
 
 

金田 わしは代表の時、ケルンで合宿してるからね。

 

田嶋 そう。その時にケルンはリトバルスキー、シティリケ、シューマッハが居て、ケルンが1番強い時で、さらにそこに奥寺さんもいらっしゃって、その時期に2か月間ケルンでお世話になったわけ。そうしたら、森の中に綺麗な芝生とクラブハウスがあって、日本から来た僕みたいな若造にもちゃんとした席まであって、スパイクもみんな磨いてあるような素晴らしい環境で、衝撃を受けたよ。興奮して練習に気合が入りすぎて、ランニングの時に「もっと遅く走れ」って言われたよ(笑)。ドイツの7月の木漏れ日の中、みんなで走ってボールを蹴る。こんな素晴らしい環境でサッカーができるということに感動したよ。
僕は、下村監督の時に日本代表に選んでもらって、その後二宮監督に替わった時に代表に選ばれなくなっちゃって、少し選手として続けるモチベーションが少し下がった時期があった。それで「早く本格的にドイツに行って、もっとたくさん学ばなきゃダメだ」と思って、3年で古河を辞めてケルンスポーツ大学に留学したんだよ。
それでクラマーさんが、ブンデスリーガ2部のバイエル・レバークーゼンっていう、ケルンの隣町のクラブにいらっしゃって、大学に通いながらクラマーさんの練習に毎日通ったんだよね。
 

 
金田 クラマーさんの指導はどうだったの?
 
 

田嶋 クラマーさんが指導していたメキシコ五輪のメンバーだった宮本征勝さん、釜本邦茂さん、森孝慈さん達が、強いインサイドキックをみんながしていたでしょ。 自分たちの世代は、キックが大事だっていうのはわかっていたけど、僕が若い頃は、そんなに教えてもらっていなかった。ところがクラマーさんは毎日ずっとボールを壁に当ててワンタッチで蹴るっていうことを続けていて、向こうのドイツの選手たちもみんなそれをやってたんだよ。普遍的なものは変わってないっていうことが分かったね。いろいろ調べてみると、韓国も止めて蹴る練習を徹底してやっていた。止めて蹴るっていうことが、いかに大切かということを学ばせてもらった。
もちろん、先輩の皆さんの指導方法を否定するわけじゃなくて、もっと楽しいものにしなきゃと思って、それを先輩方も認めてくださった。それは本当にありがたかったな。そして、日本に帰ってきてからケルンで学んだことを強化委員会でも取り入れようと取り組んだ。キンタと一緒に強化委員会に居た時は、本当に楽しかったな。
 
 

 
金田 それは、一緒に夢を語ってたからよ。楽しかったな。日本は当時、オリンピックもワールドカップも出られません。でも93年にプロリーグが始まるということで、日本中から注目された時期で、92年に広島でやったアジアカップでオフト監督の時に優勝したよね。そのあたりから日本のサッカーって凄い進化が始まった実感があったよ。
 
 

田嶋 国立競技場に満員の観客が入ってたんだもんね。ラモス(瑠偉)やカズ(三浦和良)や和司が活躍してくれてね。
 
 

金田 福田正博に森保一に中山ゴンちゃんもいてな。 ”ドーハの悲劇のメンバーは多分日本中で1番名前を覚えられてるんじゃないかな。強烈な負け方だったもんな。それくらいインパクトがあったよ。マラカナンの悲劇ってあったじゃない。ブラジルがウルグアイに負けた時は、自殺者がいっぱい出たぐらい。もちろん、日本もそうなるべきとは思わないけど、サッカー大国が、敗戦を経て成長したり、文化として根付いていったという事実はあると思う。
 
 

田嶋 今日に至るまでの日本サッカー界の歴史。決して絶やさず、ずっと語り繋いでいかないといけないね。
 


 
Dialogue MC:Yoshifumi Asano(ALL MOVIE JAPAN Inc.)
interview by HARA Sunao
photograph & text by SATO Shogo

 


PROFILE

 
公益財団法人日本サッカー協会
会長 
田嶋幸三 Kohzo TASHIMA

 
熊本県
天草郡苓北町出身。小学生の時に東京オリンピックを観戦してサッカーに興味を持ち、中学校でサッカー部を創部。埼玉県立浦和南高校3年生で全国サッカー選手権大会制覇。高校卒業後は、教員になることを目指して筑波大学に入学。大学3年生の時に日本代表に選出されFWとして活躍。卒業後古河電気工業に入社し、日本サッカーリーグ(JSL)でプレー。本格的にコーチ学を学ぶために1983年、ケルンスポーツ大学に留学し、西ドイツのサッカー指導者ライセンスを取得。1996年にはJFAS級コーチライセンスを取得。2001年、U-17日本代表の監督に就任し、U-17日本代表をFIFA U-17世界選手権大会(現、FIFA U-17ワールドカップ)に導く。日本サッカー協会の理事、専務理事、副会長を経て2016年に第14代会長に就任。国際サッカー連盟カウンシルメンバー、アジアサッカー連盟技術委員会委員長も務める。


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