野村尊敬|リーダーシップ論

 早稲田大学ア式サッカー部では、釜本邦茂と共に天皇杯を制覇し、チチヤス乳業株式会社 代表取締役社長・会長、日本サッカー協会 副会長、広島青年会議所 理事長など多くの要職を担い、経済界やスポーツ界など様々な場面で自身の”リーダーシップ”を発揮してきた野村尊敬。

 都内で行われた取材は、真剣な厳しい眼差しと周囲を明るくする柔らかな笑顔を交え、温かい広島弁で語ってくれた。野村の持つ”リーダーシップ”について迫った。

広島で出会った"サッカー"

 サッカー日本代表が銅メダルを獲得した1968年 メキシコ五輪。当時の日本代表メンバーには、広島の東洋工業(現マツダ)から多くの選手が選出されていた。今もサッカーはもちろん盛んだが、当時「静岡・埼玉」と合わせて「広島」が”サッカーどころ御三家”の一つと呼ばれていた所以である。


 「出身の広大附属小学校・中学校の校技みたいなものが当時「サッカー」で、休み時間はみんなでサッカーしよるんよ。国泰寺中学校もそうだったけど、グラウンドが狭いからどこでやるか言うたら廊下でやる。サッカーボールも今みたいなのではなくて革を編んだ重たいボールで希少だったからテニスボールでやったり。それくらい球を蹴るのがみんな好きだったんよね。それでもやっぱり広島カープがあったから野球の方が圧倒的に人気はあって、中学まで野球をやってて高校からサッカー部に入ったんよ。」

サッカーどころ広島

 長沼健、下村幸男、小城得達、森孝慈、金田喜稔、木村和司、田坂和昭、森島寛晃(以上、敬称略)などを始め、広島からは多くのスター選手が輩出されており、今も多くの広島出身選手の活躍が見受けられる。
 野球ではもちろん「広島カープ」があり、Bリーグでも「広島ドラゴンフライズ」、サッカーでは「サンフレッチェ広島と」3つのプロスポーツチームが存在する県でもある。また、スポーツ界にとどまらず広島は多くの著名人を輩出しているが、当時から広島でサッカーが盛んだったのは何故だったのか?

 「やっぱり先輩が良い道を作ってくれたんじゃないかね。サッカー協会の中でも長沼さんが一番じゃけども、長沼さんが日本代表の監督をして銅メダルを獲ったり、もりちん(森孝慈)が「プロができなければ絶対に勝てん」と言って、プロができたんよね。そういうところに関わったのが広島の人が多い。クラマーさんを連れて来た時、当時の日本サッカー協会の会長が野津さんじゃったかな?クラマーさんを連れて来るキッカケを作ったんよ。ドイツに行って勉強して来なかったら日本は絶対に強くならんというのがあった。」

 広島県内唯一のプロサッカークラブ「サンフレッチェ広島」の設立にも尽力した野村。

 「当時、広島県の体育協会の専務理事をしていたんですよ。それで、近い将来にアジア大会を広島でやるということが決まっとったタイミングも手伝って、スポーツに対する地域の理解が深まったし、新しい施設を作らにゃいかんとなった。それで今のビックアーチができて、県立体育館ができて、東区のスポーツセンターもできたし、プールもできた。それで、当時の県知事がアメリカに行ったら、アメリカでは地方の中枢都市というのは「3つのスポーツ」がいるんじゃとゆうことを知って帰ってきた。アメリカでは「野球・アメフト・バスケ」。 この3つがなかったら地方の中枢都市と言われんのよと。だから、広島にはプロ野球があるんじゃけぇ、プロサッカークラブを作らにゃ絶対いけんと知事が言うてくれたんよ。それでわしが設立発起人の代表になって、県民球団みたいなものを作るからと、県も市も経済界も協力的になって、地元企業だとマツダを筆頭にみんながお金出して、みんなのチカラで設立できたんよ。」

現場第一主義|地域の3大資源

 広島青年会議所では1981年度 第31代理事長を務めた野村。その当時、まだまだポピュラーではなかった市民マラソン大会を、広島でどうしても開催したかった。青梅マラソンを手本にし、行政など関係各所に足を運び、自身の思いを伝え、念願の第1回大会を開催することができた。
「JCの卒業も近くなってきた頃に「広島に何を残したらいいか」と考えました。当時チチヤスの2階に事務局を設置して、色々なところに足を運んで、色々な方面の人に協力してもらいましたよ。これまでの人脈が活きて色々なことがスムーズに運びました。人の縁に本当に恵まれたと実感しましたよ。大会が無事開催できた瞬間、感動したのを覚えとりますよ。」

 チチヤス乳業では入社後、専務・社長・会長を歴任した野村。野村が特に徹底したのは"現場第一主義"だった。
「まず自分が率先して動かなければ人はついてきません。同族会社を脱皮して"社員中心"の会社にしないといけないと思って、自ら率先して動くとゆうことを大事にしてました。当時、関東進出のきっかけにもなった美味しいヨーグルトが開発できたのもあって、当時は全国の色々な流通さんに直接足を運んで挨拶に回ったりもしました。」

 郷土"広島"を愛し、広島を代表する企業の経営者を務め、サンフレッチェ広島の創設にも尽力し、広島青年会議所でも理事長を務めるなど、これまで多方面でリーガーシップを発揮し活躍してきた野村。最後に、地域で汗をかく若者や青年経済人へのアドバイスを聞いた。
 「まず、地域には"3大資源"があります。「ヒト・モノ・カネ」ですよ。ヒトは『個人資質、郷土愛、発想力、行動力、団結力』。カネは『地元優良企業、健全な金融機関、補助金制度、地域創生ファンド』。モノは『特産品、特産技術、知名度の高い商品』。じゃけどそれら全ての基本は「ヒトづくり」ですよ。一人一人が情熱や志を持って、夢や目標に向けて取り組んでもらいたいです。それとサッカー日本代表の監督も、監督として実績を積んで来た若手の日本人が就任するのを期待してますよ。」

interview by HARA Sunao
photograph & text by SATO Shogo

PROFILE|野村尊敬 ~NOMURA Sonkyo~

野村 尊敬 -NOMURA Sonkyo-

1941年広島県生まれ

広島県出身。広島大学付属高等学校では、フルバックとして選手権、国体でともに準優勝。その後早稲田大学へ進学。森孝慈、釜本邦茂らと共に同大学ア式蹴球部の黄金期を創った。
在学中の1963年には日立本社(現柏レイソル)を3-0で破り、早稲田26年ぶりの天皇杯制覇に貢献。
1964年卒業後、チチヤス乳業に入社。専務取締役、副社長を経て1996年チチヤス第5代社長に就任した。
日本サッカー協会では副会長を務め、サンフレッチェ広島の設立発起人代表として、同クラブの設立に貢献した。


■主な経歴・役職
早稲田大学卒業、チチヤス乳業株式会社 元代表取締役社長、元 日本サッカー協会 副会長、元 広島青年会議所 理事長、広島県体育協会顧問、広島県サッカー協会 名誉会長、中国サッカー協会 会長、中国ゴルフ協会 監事

■受賞歴
1997年 文部大臣表彰、2002年 藍授褒章