特別対談
激変する時代とスポーツの価値

2020年度から、日本サッカー名蹴会のユニフォームスポンサーとなった”大和ハウス工業株式会社”。
中央大学ラグビー部に所属していた同社代表取締役社長 芳井敬一氏と、中央大学サッカー部で、大学在籍時代から日本代表に選出されていた日本サッカー名蹴会 会長 金田喜稔。
同じ中央大学を卒業した両氏がそれぞれの視点で当時を振り返り、「激変する時代とスポーツの価値」を紐解きます。
芳井 先輩、よろしくお願いいたします。
 
金田 僕が中央大学の練馬の寮に1年と2〜3ヶ月位居て、そこから南平に移ったんですが、芳井さんが練馬の寮に居たのって短いんじゃないですか?
 
芳井 そうですね、3月にラグビー部として寮に入ってから6月まで居た程度だったのですが、強烈な記憶が残っていますね。
 
金田 それはラグビー部がキツかったからですか?
 
芳井 それは相当キツかったですね。当時は何度か寮を脱走しましたから。
 
金田 ラグビー部は特に脱走して居なくなる学生が多かったですからね。サッカー部は1年〜4年生までで脱走したのは、僕の時代だと2人くらいだったんですよ。
 
芳井 ラグビー部は1学年7〜8人くらいは居ましたよ。僕が入部した時は、同級生が18人位入部したのですが残ったのはひと桁でした。
 
金田 そんなに厳しかったんですか?
 
芳井 はい。同じ高校から3人入部しましたけど、3人とも寮を脱走しました。(笑)
 
金田 そんなに厳しかったのなら、あまりラグビー部時代に良い思い出がないんじゃないですか?(笑)
 
芳井 いえいえ、良い思い出ばかりで、当時の経験が今とても役に立っていますよ。当時のラグビー部での生活は、理不尽なこともありましたけど、ラグビー部でよかったと思っています。あの時代がなかったら今の僕はないでしょうね。
 
金田 今日はそれについて、是非聞いてみたいんですよ。
芳井 多分、中央大学在学時にすでに日の丸のユニフォームを着てらっしゃった金田先輩が経験されたことと、僕たちみたいにギリギリ選手になれるかどうかという層とはちょっと違う経験かもしれないですが、やはり大きかったのは「人との出会い」です。
例えば、同級生と接していても、僕はこういう風に考えるからダメだったんだろうな、といったような精神的なことを学びました。特に、元神戸製鋼の平尾誠二さんが残された言葉を、今でもよく思い返したりします。平尾さんの言葉というのは、非常に分かりやすく、彼なりのシナリオというか理論の組み立て方があるんです。それを今でも僕は、自分の言葉に置き換えて、社員に対して使わせていただくこともあります。

金田 そうなんですね。年齢的に、平尾さんは芳井さんの後輩になりますよね?
 
芳井 はい。後輩にあたりますが、ラグビーの育ち方、ラガーマンとしての佇まいが圧倒的に違いました。おそらく頭の中で描いているイメージや志すものが他と違ったのだと思います。
 
金田 平尾さんは、自ら海外へ留学して色々なことを学ばれていた方ですよね。スポーツ界にとっては非常に惜しい方がお亡くなりになったという気がしますね。
 
芳井 はい。平尾さんが亡くなられた時のことは衝撃的で、今でも忘れられません。平尾さんが凄くいい言葉を残していまして、弊社が神戸製鋼さんからお仕事を頂く時に、難航した案件だったのですが、彼が発注元のグループ会社の社長さんと親しいということがあって、当時、東京ステーションホテルのロビーでお茶を飲みながら、平尾さんに相談に乗ってもらったことがありました。その時、平尾さんは「今ここから電話をしてお願いすれば、80%は成約すると思います。」ということだったのですが、僕としては、残りの20%をどうしても埋めてしまいたい。平尾さんは、その20%を埋める作戦として、ラグビーの公式戦にその社長を招いて、試合中その社長の横で平尾さんが解説をします。そして、その試合が終わった後に「例の件ですが、どうなりましたか?」と念押しすれば、その20%は埋まると言うのですが、その通りになりました。

金田 それはやっぱり、交渉のタイミングっていうのをしっかりと見極めていたということなんですか?
 
芳井 はい。それと”リスクヘッジ”ですね。ラグビーでもサッカーでも、戦術を立てると思うのですが、その戦術が正しいとすると、それは20%。残りの80%は、仲間がそれを理解してその通りにプレイできるかどうか。だから、その戦術をまずはチーム全員に正確に伝えられるかという部分が非常に大切です。だから、私は社内でもよく「丁寧に伝える」ことの大切さを説きます。自分が思っている以上に、より丁寧に伝えないと、相手に理解されないんじゃないか?ということです。
 
金田 当時の平尾さんの年齢を考えても、やはり平尾さんはすごいですね。
芳井 そうですね。ある日、平尾さんとお会いする予定でしたが、平尾さんが体調が悪いとのことでキャンセルになったことがありました。彼にとっては珍しく、自分から連絡せず、人を介したキャンセルだったので、彼らしくないなと違和感を感じたことを覚えています。その後、彼が闘病していたことがわかって、非常に残念でした。
 
金田 本当にスポーツ界にとって大きな損失でしたね。 
 
芳井 容姿も格好よくて、頭脳明晰で、絵になる男性でしたね。金田さんも若い頃から活躍されて、日本代表の最年少ゴール記録も未だに破られていないですよね。当時、Jリーグが開幕してプロには進もうと思わなかったのですか?
 
金田 そうですね、僕の時代は日本代表の先輩方のほとんどが、日本リーグの一流企業から日本代表に招集されている訳じゃないですか。そうなると、その先輩方々は、当たり前のように現役を引退したら会社に戻って、その会社の中でさらに学んで行きたいという姿勢の方々が多かったんですよ。さらに僕は子どもの頃、本なんて読んだこともなかったのですが、なぜかわかりませんが、”源氏鶏太氏”のいわゆるサラリーマン小説にハマったんですよ。活発な元気のいい青年が会社の問題を解決するみたいな小説だったんですけど。それ読み倒していたこともあって、会社にお世話になって勉強したいなという動機があった時代でしたね。
 
芳井 そうだったんですね。同じ広島県ご出身の木村和司さんはプロに進まれましたね。
 
金田 和司はプロ第一人者でしたね。当時、僕は午前中に銀座の日産本社で勤務して、午後からトレーニングという生活でした。現役を引退して33歳で会社に戻って、毎日のトレーニングもなくなって会社員としての生活が始まるんですが、僕は人事部に10年居て、総務部に2年半居たんですけれど、結局目の前にある電話が鳴ってもね、受話器を取れないんですよ。それは、謙譲語だとか尊敬語だとか丁寧語だとかが使えないからなんですよ。どういう風にお客様に対して話して良いのかが分からないんです。例えば、「お願い申し上げる、仕る次第に存じあげます」とか訳の分からない言葉を使って、隣の女の子とかめちゃくちゃ笑っているわけですよ。俺、これやっていけないなと思って。(笑)
でも勉強するしかないなと、18歳や22歳くらいの若手と混じって勉強会をやって、もう本当に大恥かいてましたよ。でも、その短い間でしたけど、サッカー解説者という立場に身を置いた後からも、当時学んだ事がかなりプラスになっていますよ。

金田 芳井社長が、2021年の抱負として、“勇往邁進”という言葉の“邁”という1文字を掲げられたじゃないですか。もう何度も聞かれていることかと思いますけれども、“邁”という字を選んだ背景について教えて頂けますか?
芳井 2020年は、新型コロナウイルスの影響によって、我々にも大きな試練が与えられました。一方で、新型コロナウイルスとの共生という視点においても、守備ばかりしていては、気持ちも落ちていく。いわゆる「勇気」を出してまっすぐ進もうよ、という気持ちを表しています。その前の年は、“革”という言葉を選んでいますが、それはその前年に弊社が色々と不祥事を起こしまして、「変革し、改善しなければ会社が残らない」という意味で”革”を選びました。その変革の道を進んでいるときに、コロナという試練がやってきました。守備は大切なことですが、守備だけでなく、攻撃もしないと企業として生き残れない。とにかく勇気を持って前進しよう、というメッセージが込められています。

金田 新型コロナウイルスの影響で、生活や仕事のスタイルが大きく変わらざるを得ない環境になったじゃないですか。例えば、営業の方が家を一軒売るということに関しても、これまで通りのセールス手段だけではなくて、リモートで商談するといったようなことにも取り組んでいかなければならないですもんね。新たな取り組みに挑戦すること自体が前進ですからね。
 
芳井 そうです。ただし、前進するにしても、みんながそれについて来れないといけないんです。僕の前の前の社長が、非常にいい言葉を使っていたんです。会社が成長して行くための土台を作った村上ですが、いわゆる「攻めと守りの両方のバランス」をとって行こうということを言われたんです。攻めるときは攻める。しかし、守るべきところは守れよと。その土台の上に大野という社長が、ガンッと会社を伸ばしました。大野は本当に稀に見る有能な経営者だと思っています。では今はどうかというと、先ほどの繰り返しになりますが少し会社に問題が生じました。それを建て直そうとしている最中に、コロナウイルスの感染拡大が起こりました。今こそ準備運動ができたので、前に進もうよと思っています。ただ無闇矢鱈に前に行けと言っているわけではありません。だから、新型コロナウイルスの感染拡大が起きた当時は、まず自分の安全確保をしてくれと社員にお願いしました。無用な大和魂は要らないという意味も込められています。
金田 以前お会いした時にもお聞きしましたけど、芳井さんは若い頃に交通事故で大怪我をされているじゃないですか。その時の入院生活って大変で長かったと思うんですけど、その病院のベッドで何を考えられて居たんですか?
 
芳井 仕事の不安ももちろんですが、やはり「生きる」ということですね。母親も泣いてますし、衝突した時の眩暈というのが後遺症のように残っていて、時々眩暈の症状が出ていたんです。だから元通りの生活ができるかな、というのが一番大きかったですね。
 
金田 当時、海外に行くプロジェクトのメンバーに芳井さんが選ばれたタイミングだったんですよね。その大怪我の後に、神戸製鋼さんから大和ハウス工業さんに入社されて居ますけど、一番やりたくなかった仕事は営業職だったんですよね?
 
芳井 そうです。母親にも絶対営業職にはなるなと言われてました。社会人になって神戸製鋼ラグビー部に入ったのですが、神戸製鋼がどういうチームかというと、万年5位とか6位とか、関西で全然勝てないんですよね。2勝4敗とか3勝4敗とか、そういう感じなんです。そこに、同志社大学で日本一になった”菅野有生央”が来て、それから、お亡くなりになりましたが、関東の大学の対抗戦で優勝した”東山”が来ました。菅野有生央が目指しているものは”日本一”ですよ。だから、日本一になるためのトレーニングをしているんですよ。彼は。僕自身、それについて考えた時に、やっぱり営業という自分が苦手と思っていることを克服して、やり切って成長しなければいけないんだと思いました。だからすごく、彼らから学んだことは大きいです。僕なんかの量じゃないくらい練習していました。
 
金田 ラグビーで出会った人々に触発されて刺激を受けたんですね。
芳井 はい。僕もよく感化されて、練習の走り込みだけじゃ足りないと思って、寮から会社までの50分、帰りは登り坂なので1時間半くらいかかりますが、トレーニングとしてランニングしていました。結局、その努力がずっと積み重なって、ある大会の準決勝で強豪の新日鉄さんに勝つことができました。そういった経験もあって、大和ハウス工業では営業職というものから叩き上げていって、自分が苦手意識を持っていた「モノをしっかりと売る」ということを自分に課したんです。それ以前の若い頃の僕自身は、海外転勤して”格好良い職種”を目指していました。ただ表層的に格好良いものを目指していたので、大怪我という天罰が下ったんだと思います。
 
金田 これまで芳井さんは、各事業所で役職を歴任されてこられて、社員の方々の勉強会や座談会などの制度などを積極的に作られてこられたんですよね?
 
芳井 はい。金田さん、僕たちは中央大学で寮生活をやってきたじゃないですか。寮生活というのは、違う学校から何十人と知らない者同士が集まりますけど、ただ寮に居るだけでは、横のコミュニケーションってほぼほぼ無いんですよ。じゃあ、これがどこでコミュニケーションが生まれるかというと、やっぱり夏合宿に行って、その合宿先での練習や寝食を通じて急速に仲良くなっていくんです。つまり、会話を積み重ねないと何をするにしても、お互いが通じ合えないと思っているんです。
 
金田 確かに。合宿や遠征で寝食を共にすると、絆も深まって、自然と会話も生まれますよね。
 
芳井 本社内に社員が2,000人くらい居るので、朝会った時に「おはよう」も言わない人同士だったのが、座談会の後は、次第に「おはよう」と挨拶を交わすようになります。彼らが会話を重ねられるような風土作りが何より大切で、僕はただそれを見守り続ける。自分がペラペラ喋らないで、ひたすら彼らの話に耳を傾けているだけなのですが、「見られている」という意識を持たせることも大切だと思っています。例えば、金田さんが後輩の部員を、名前で読んであげたりするだけで、その後輩は名前を覚えてもらって嬉しいでしょうし、何よりその人が育つと思いますね。
金田 そこはありますね。確かに先輩の影響力は大きいですからね。芳井さんは、もちろんまだまだ現役バリバリでお忙しい毎日を送られていると思いますが、今後やりたいことってどんなことですか?
 
芳井 「家を売る」ということを考えたときに、僕がずっと営業の人たちに対して言っていることは、「お客様が僕たちに発注してくれる日を決めるな」ということです。いつの間にか家を売るときに、お客様に出すスケジュール感として、「この日に決断しましょうね」という日が、2ヶ月とか3ヶ月くらいのスケジュールとして出てしまうんです。いや、そうじゃないよねと。そんな営業はしないほうがいいと、営業には伝えています。お客様にとっては「一生で一番大きい買い物」です。だから、きちんと納得感を持って頂けるかということが大切だと、僕は昔から考えていました。
 
金田 お客様ファーストの姿勢ですね。コロナで、街や住宅の在り方も大きく変化したと思うのですが、いかがですか?
 
芳井 これまでは「帰ってホッとする家が良い」というお客様も多かったと思います。しかし、今は「家でどう生きるか」という時代になってきたと思います。仕事が終わったら帰って休むのではなく、リモートワークも含めて「家と共にどう生きて行くか」がテーマになっていくと思います。この辺を切り替えていかないと、今までの家の提案ではきっとダメだと思っています。
 
金田 なるほど、「住む家」というより、「生きる家」なんですね。
 
芳井 そうですね、特に東京などのワンルームマンションに住われている若い方々は、リモートワークになって、休む場も仕事のフィールドも全てそのワンルームマンションでこなしてることになるんですよね。これはすごく苦痛のはずです。そうすると都内を離れて、同じ家賃でも、ワークスペースと寝室みたいに使える部屋が2つあるという方が望ましいという方も増えると思うんですね。「帰る家から、生きる家」。これをテーマに、当社としてどのように提案できるかということを追求しています。
 
金田 確かに、そういうリモートワークのような新しい働き方はかなり増えて、定着してきましたもんね。僕なんかは外で動いてなんぼの人間ですが、会社に通勤するということも少なくなったり、生活スタイルが変わりましたもんね。社長としての芳井さんではなくて、ひとりの人間としてこれからしたいことがあるとしたらどんなことですか?
 
芳井 そうですね、僕はやっぱり人を見ていきたいですね。
 
金田 それは教育やボランティアで何か活動したいということですか?
 
芳井 音楽も好きですし、色々としたいことはありますが、行く末は、障がい者の子たちとも触れ合いたいと思っています。障がい者の子どもたちから、トイレットペーパーをもらうことがあるんですけれども、トイレットペーパーを見ると「ありがとう」って一つ一つ手で書いてあるんですよ。さらにその中に子どもたちが描いてくれた絵も入っていて、それを眺めていたら使えないんですよ。どうしようかなと思ってしまう。それとそう遠くはないと思いますが、引退後は、地域の小学校の前の横断歩道で子どもたちの安全を確保するボランティアをやりたいですね。具体的に週2回は行きたいなと思っています。人生で色々経験をさせてもらっているので、誰かからこういうことで役に立つよと言ってくださって、そこで何か役に立つことをできたら良いですね。
 
金田 最高ですね。2020年度から大和ハウス工業さんにご支援頂いて、スポーツ界においてはコロナという試練があった訳ですが、その中で新たな挑戦も含めて、できる限りのことはやってこれたかなと思っています。国内の経済状況も大変ではありますが、名蹴会の活動をしていく中で、やはりスポーツ含めた文化活動は、人々が暮らしていく中で、なくてはならないものだなということも改めて実感することができました。それも大和ハウス工業さんの支援のお陰だと重々感謝しています。本当にありがとうございます。名蹴会の活動をもっともっと広げて、社会の役に立っていきたいなと思っています。今日はお忙しい中、お時間を作って頂いてありがとうございました。
 
芳井 こちらの方こそ、こうして金田先輩とじっくりお話ができて楽しかったです。ありがとうございました。


PROFILE

大和ハウス工業株式会社
代表取締役社長/CEO 芳井敬一 Keiichi Yoshii

1958年大阪府生まれ。

高校時代は、ラグビーの大阪市代表チームのキャプテンを務め、中央大学ラグビー部でも活躍した。同大学を卒業後、神戸製鋼ラグビー部に入部。

1990年、大和ハウス工業に入社し、未経験の営業職の世界に飛び込む。
姫路支店長、金沢支店長などを歴任。取締役上席執行役員海外事業部長、取締役常務執行役員東京本店長、取締役専務執行役員営業本部長を経て、2017年11月社長に就任、2020年10月より現職。
対談MC:株式会社オールムービー・ジャパン 浅野 義文